お灸事典
大正~令和時代
お灸を愛した偉人

高浜虚子とは
高浜虚子(たかはま きょし/1874―1959)は、明治から昭和にかけて活躍した俳人で、日本の近代俳句を代表する人物の一人です。俳句革新を進めた正岡子規の門下に入り、俳句の道を歩みました。子規はお灸に関する俳句も多く残しており、虚子もまた俳句の中で季節の暮らしや養生の風習を詠んでいます。
虚子は俳句雑誌『ホトトギス』の中心人物として活躍し、多くの俳人を育てました。また、この雑誌から夏目漱石の小説『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』が発表されたことでも知られています。

高浜虚子
虚子の俳句は、自然の美しさや人々の暮らしの情景をやわらかな言葉で描き出し、今も多くの人に親しまれています。

季語「二日灸」
「二日灸(ふつかきゅう)」は、旧暦2月2日(現在の暦では3月頃)や8月2日(現在の暦では9月頃)にお灸をすえるとよいとされる、日本に古くから伝わる養生の風習です。この日にお灸をすえると「普段の倍の効果がある」、「無病息災」で過ごせるといわれ、江戸時代には広く親しまれていました。俳句の世界でも春や秋の季語として登場し、暮らしの中の養生の知恵を伝えています。
高浜虚子は次のような句を残しています。
“先人も惜みし命二日灸”
この句には、昔の人々が命を大切にし、日々の養生としてお灸を取り入れてきた様子が込められています。先人たちが大切にしてきた命。その命を守る知恵として、二日灸の風習が受け継がれてきたことを、静かな言葉で表現した一句です。
“二日灸 旅する足を いたはりぬ”
高浜虚子には、こんな句もあります。長い旅路を歩く足をいたわるようにお灸をすえる情景が浮かび、昔の旅人の養生の姿を感じさせてくれます。旅の安全や体調を気づかう知恵として、お灸が暮らしの中にあったことが伝わってきます。
季語「お灸花(ヘクソカズラ)」
お灸花と呼ばれる植物があります。これはヘクソカズラというつる性の植物で、夏になると白く小さな花を咲かせます。花の中心が赤く、お灸の跡のように見えることから「お灸花」とも呼ばれ、俳句の季語としても親しまれてきました。


“名をへくそかづらとぞいふ 花盛り”
高浜虚子は、この花をこのように詠んでいます。可憐な花が咲き誇る様子を見ながら、その少しユーモラスな名前をしみじみと味わっているような一句です。美しい花でありながら「へくそかづら」という名をもつ植物に、自然の面白さと人の暮らしの感覚が感じられます。
俳句には、季節の自然だけでなく、昔の人々の暮らしや養生の知恵も詠み込まれています。高浜虚子の句からも、お灸が日々の暮らしの中で親しまれてきた文化であることが伝わってきます。
高浜虚子 著『虚子俳話』続,東都書房,1960. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1359144 (参照 2026-03-13)
高浜虚子 著『虚子自伝』,朝日新聞社,1955. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1354219 (参照 2026-03-13)

明治文学を代表する文豪
幸田露伴(こうだ ろはん/1867年–1947年)は、明治時代から大正、昭和にかけて活躍した小説家・随筆家。
電信技師(現在の無線通信士にあたる職)として北海道に赴任した後、文学の道へ進みました。
小説の代表作『五重塔(ごじゅうのとう)』では職人の生きざまを通して誠実さと信念を描き、『努力論(どりょくろん)』『風流仏(ふうりゅうぶつ )』などでは人としての生き方や精神のあり方を説きました。
森鷗外、夏目漱石と並び称されるほどの文豪、幸田露伴。日本近代文学の礎を築き、第1回文化勲章を受章しました。深い洞察と独自の人生観により、多くの人々に影響を与え続ける幸田露伴。
幼少期は病弱で、母や祖母にすすめられ「お灸」で養生をしていたそうです。

伊藤整 等編『日本現代文学全集』第6 (幸田露伴集),講談社,1963. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1661341 (参照 2025-11-13)

伊藤整 等編『日本現代文学全集』第6 (幸田露伴集),講談社,1963. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1661341 (参照 2025-11-13)
幼少期に親しんだ「お灸」
露伴は、幼いころから病弱でした。生後二十七日にして医者の世話になるなど、たびたび生死の境をさまよったといいます。学び始めた頃には眼の病を患い、光を見るのもつらく戸棚の中に隠れて泣いていたと、自身の随筆に記しています。さまざまな療治の末、父に連れられて「二十八宿の灸」と呼ばれる「お灸」を受け、少しずつ快方へ向かいました。弁天の池で蓮の花が見えたときの喜びを飛び立つようだったと綴っています。幼いころは母や祖母に「お灸」をすえてもらうことも多く、のちの露伴の養生観へとつながっていったのでしょう。
当時は、東洋の伝統医療である「お灸」が家庭の中に深く根づいており、家でできる身近な手当として人々の生活の一部になっていました。
露伴の養生観
露伴の養生観は、単に健康法ではなく、心と身体をともに磨く生き方の哲学として形成されていきました。
人はどう生き、どう努力すべきか。露伴はその問いに向き合いながら、まず何よりも身体の健康を整えることの大切さを説いています。
『努力論』(1899年)では、“人は身を養うを忘るべからず。身は心の器なり”と記し、どんなに立派な志があっても、身体が不健康ではその力を十分に発揮できないと述べています。心の健やかさは、健全な身体に支えられてこそ成り立つというのが、露伴の考えでした。

幸田露伴 (成行) 著『努力論』,東亜堂,明45.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2208114 (参照 2025-11-13)
さらに『修省論 (しゅうせいろん)』では、“養生は道にして、日々の行いにあり”と記し、健康を保つための養生とは、特別なことではなく、日々の暮らしの中で自然に実践すべきものであると説いています。
幼少期の「お灸」のぬくもりは、露伴の生き方に静かな気づきをもたらしたのかもしれません。
幸田露伴 肖像:アサヒカメラ 編『木村伊兵衛傑作写真集』,朝日新聞社,1954. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8799323 (参照 2025-11-17)

「土用にして灸を据うべき頭痛あり」
文学者であり、俳人でもあった夏目漱石のよく知られる俳句です。
土用灸は夏の季語。
江戸時代、夏の暑さをのりきるために、土用にお灸をする夏の養生法です。
この土用の日に、お寺などでは、火のついた「もぐさ」をのせたほうろくを頭に置く、ほうろく灸加持も行われます。
『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『三四郎』『それから』『門』などで知られる夏目漱石は、日本を代表する作家であり、英文学者、次々と名作を発表しました。
漱石は胃潰瘍 神経衰弱、頭痛をはじめさまざまな病気に悩まされ、お灸は日常欠かせないもの、俳句にも詠むほど漱石にとって大切だったのです。
「肩がこる」は漱石から
ちなみに「肩がこる」という言葉は夏目漱石によってはじめて使われたといわれています。
それまで「肩が張る」という言葉が使われていましたが、漱石は、名作『門』の中で “指でおしてみると、頸と肩の継目の少し背中へ寄った局部が、石のように凝っていた。”
と記したのが、「肩がこる」という言葉が使われたはじまりとされているのです。
その詳細な肩こりの説明からも、漱石が日々お灸を愛用していたことが伺えるのです。
夏目鏡子 述 ほか『漱石の思ひ出』,改造社,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1226187 (参照 2024-10-23)
夏目漱石 著『吾輩ハ猫デアル』上,大倉書店,明治38. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13046229 (参照 2024-10-25)
夏目漱石 著『漱石全集』第六巻,漱石全集刊行会,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1883236 (参照 2024-10-25)






