お灸事典

お灸を愛した偉人

明治時代の文豪
夏目漱石
なつめそうせき
俳句にもお灸を詠んだ
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俳句にもお灸を詠んだ


「土用にして灸を据うべき頭痛あり」

文学者であり、俳人でもあった夏目漱石のよく知られる俳句です。

土用灸は夏の季語。

江戸時代、夏の暑さをのりきるために、土用にお灸をする夏の養生法です。
この土用の日に、お寺などでは、火のついた「もぐさ」をのせたほうろくを頭に置く、ほうろく灸加持も行われます。

『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『三四郎』『それから』『門』などで知られる夏目漱石は、日本を代表する作家であり、英文学者、次々と名作を発表しました。
漱石は胃潰瘍 神経衰弱、頭痛をはじめさまざまな病気に悩まされ、お灸は日常欠かせないもの、俳句にも詠むほど漱石にとって大切だったのです。

「肩がこる」は漱石から

ちなみに「肩がこる」という言葉は夏目漱石によってはじめて使われたといわれています。
それまで「肩が張る」という言葉が使われていましたが、漱石は、名作『門』の中で “指でおしてみると、頸と肩の継目の少し背中へ寄った局部が、石のように凝っていた。”
と記したのが、「肩がこる」という言葉が使われたはじまりとされているのです。

その詳細な肩こりの説明からも、漱石が日々お灸を愛用していたことが伺えるのです。

夏目鏡子 述 ほか『漱石の思ひ出』,改造社,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1226187 (参照 2024-10-23)
夏目漱石 著『吾輩ハ猫デアル』上,大倉書店,明治38. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13046229 (参照 2024-10-25)
夏目漱石 著『漱石全集』第六巻,漱石全集刊行会,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1883236 (参照 2024-10-25)

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歌人、随筆家
吉田 兼好
よしだけんこう
お灸が『徒然草』に
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お灸が『徒然草』に

“つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて…”

『徒然草』は『方丈記』『枕草子』と並んで日本三大随筆にあげられています。
吉田兼好は、鎌倉時代の歌人であり随筆家。


全243段からなる『徒然草』は、兼好が日常生活の中で見聞きしたこと、気になったことなどを筆のおもむくままに記しています。

その第148段には、
“四十以後の人、身に灸を加へて、三里を焼かざれば、上気の事あり。必ず灸すべし。”

「40過ぎの人は、カラダにお灸をすえた時に、三里に灸をしておかないとのぼせることがある。必ず灸をすべきである」と記しています。

この文章から、お灸が当時日常的に使われていたことが伺えます。

兼好の生きた鎌倉時代は、新仏教の時代でした。
法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍がそれぞれの宗派をひらいたのです。
そして、茶道を日本に伝えたとされる栄西をはじめ、それぞれが中国から仏教の教えとともに湯液(今の漢方薬)、灸法などを日本に伝えました。


僧医 梶原性全(かじわらしょうぜん)による灸法を記した医学書『万安方(まんあんぽう)』や『頓医抄(とんいしょう)』が著されるなど、僧が仏の教えをひろく伝えるとともに灸治療を行く先々で行なったこともあり、庶民の間にお灸が広まった時代でもあったのです。

『徒然草』は、お灸の歴史を語る上で、鎌倉時代のお灸事情が読み取れる貴重な書でもあるのです。

兼好法師像(法印生明印)
西尾 実 校注 , 安良岡 康作 校注 「新訂 徒然草」、岩波文庫、1928年12月
西尾 実 校注 , 安良岡 康作 校注 「新訂 徒然草」、岩波文庫、1928年12月
兼好法師像 江戸時代 神奈川県立金沢文庫
法然上人像:慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)
親鸞聖人像:奈良国立博物館 収蔵品データベース
佐成謙太郎 著『徒然草全講』,明治書院,1957. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1666316 (参照 2024-10-25)

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真言宗開祖
弘法大師・空海
こうぼうだいし・くうかい
お灸を日本に広めた
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お灸を日本に広めた

“灸は身をやくものにあらず、心に灯りをともすものなり”

お大師さんと今も親しみをこめて呼ばれる空海は、平安時代を代表する僧の一人であるとともに、文章の達人であり、教育者、科学者そして優れた書家でもありました。
空海が弘法大師と呼ばれるのは、後に天皇から功績や徳のある高僧として「大師」の号が送られたからです。

現在の香川県で生まれた空海は、31歳の時、遣唐使として唐に渡り、2年で密教を学び帰国しました。
仏教だけではなく、天文 土木 建築 漢方 医療についての知識と多くの文献を持ち帰り、全国さまざまな地をめぐり人々に仏の道をとくとともに、お灸の素晴らしさを伝えていったのです。

そして空海は42歳の時、四国に四国霊場をひらきました。
今、お遍路さんで知られる「四国八十八ヶ所霊場巡り」は徳島県の霊山寺を起点に、空海ゆかりのお寺などをめぐる全長約1400 kmの道。
かつては修行のための道でしたが、江戸時代から「お大師さん」を慕い、「お大師さん」とともに歩き、旅をする人が巡るようになったのです。

このお大師さんの道をたどる人を地元では、古くからお遍路さんと呼び、宿や食事などでもてなす「お接待」という風習が今もつづけられています。四国は弘法大師の生誕地、ふるさとであり、お灸が盛んだったことから、お遍路さんへの「お灸接待」もあるのです。

四国のみならず、日本全国へ広め、伝えたお灸は、1000年を超えて今に受け継がれ、人々の健康を支えつづけています。

弘法大師像:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
『四国遍路御詠歌道中記』,新居田政五郎,明12.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/819367 (参照 2024-10-25)

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幕末の志士
坂本龍馬
さかもとりょうま
お姉さんの手紙「お灸すえたか」
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お姉さんの手紙「お灸すえたか」

“先日送ったお守りは届いたか、口養生をせよ。
お灸はすえたか。今は自分で気をつけないといけないよ”


幕末という歴史の舞台を駆けぬけた坂本龍馬。

19歳の時、剣道修行のために生まれ故郷の土佐を離れ、江戸の千葉道場に入門した龍馬。

ふるさと土佐に住むお姉さんが、龍馬へ送った手紙の一節です。

12歳にして母をなくした龍馬を、母親代わりに育てたのは19歳離れた姉と、3歳年上の姉の2人でした。

なかでも3歳年上の姉は、早くから薙刀を始めて武術をよく習い、学問に励む人でした。

幼い頃から泣き虫、弱虫だった龍馬を水泳で鍛え、武術の相手をしたり、龍馬に読み書きを教え、何事もやりとげることの大切さを教えたりしたのは、2人の姉たちだったのです。

すっかりたくましくなって、江戸に旅立った龍馬とはいえ、土佐に住む姉たちにとっては気になることばかり。

というのも当時の平均寿命は35〜45歳といわれ、志半ばにして病に倒れた若者も少なくなかった時代。出世のためには、健康の維持が欠かせない時代だったのです。

2人の姉たちは、食べ物に気をつけ日々のお灸を欠かさぬようにと、龍馬を励ましたのです。

しかし、江戸に到着した龍馬を迎えたのは、日本の歴史をゆるがす「黒船来航」でした。

250年近くにわたって鎖国をつづけてきた日本に、4隻の軍艦でやってきたペリーが日本に開国を求めてきたのです。

18歳の多感な龍馬にとって黒船の衝撃は、彼の一生を運命づける出来事でした。

アメリカから開国を迫られた日本は海外、世界を相手にしていかなければならない、大きな時代の変化を強く感じた龍馬は28歳の時、土佐藩を脱藩し、再び江戸に向かいました。

“日本を今一度せんたくいたし申候”
龍馬は姉たちにこの手紙を送り、志を同じくする勝海舟に弟子入りし、やがて新しい日本の国づくりという大望に向かって走り出したのでした。

幕末という激動の時代、自らの進む道に向かってまっすぐ進んだ龍馬。
その行動を支えたのは、姉たちが龍馬へ言い聞かせた「食事に気をつけ、お灸をすえる」アドバイス、養生法を守りつづけたことでした。   



『近世名士写真』其2,近世名士写真頒布会,昭10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3514947 (参照 2024-10-25)
坂本龍馬関係資料 高松千鶴より龍馬あて:国立文化機構所蔵品統合検索システムより加工
田中一貞 編『万延元年遣米使節図録』,田中一貞,1920. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1920856 (参照 2024-10-25)

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俳人
松尾芭蕉
まつおばしょう
旅立ちの前にまずお灸。『奥の細道』へ
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旅立ちの前にまずお灸。『奥の細道』へ

“三里に灸すゆるより、松島の月先心にかかりて…”

“月日は百代の過客にして行きかう年も又旅人なり…”
教科書でも知られる俳聖 松尾芭蕉の俳諧紀行文『奥の細道』の序文に書かれた一節です。

芭蕉は『奥の細道』への旅に思いを馳せながら、旅の準備とともに、欠かさずお灸で体調を整えていたのです。
『奥の細道』への旅立ちは、元禄2年(1689年)春3月のこと。芭蕉は弟子の曽良(そら)とともに江戸を立ち、奥州へと向かいました。
平安時代の歌人 能因法師(のういんほうし)や西行の足跡をたどり、名所旧跡をめぐって、各地の俳人たちと交流を楽しむ旅でした。

江戸時代、世情も安定し、日本橋を起点とした五街道が整備され、庶民の「お伊勢参り」なども盛んになり、奥州への旅も容易になった頃でした。
『奥の細道』は、約150日、全長約600里(約2400km)の旅でした。
江戸時代は当然歩き旅。歩く距離は、一日約8里から約10里(約32~40km)だったといいます。 芭蕉はあちらこちらへ寄り道をしたり、一カ所に何日も滞在したりすることもあったようですが、今では考えられないかなりの距離を歩いたのです。

それだけに、日々カラダの手入れは何より大切で、芭蕉の旅にもお灸は欠かせなかったのです。当時、お灸に使う「もぐさ」は旅行の必須アイテムだったのもうなずけます。

お灸で体調を整えながら歩いた芭蕉は、『奥の細道』を格調高い文章でまとめ、俳諧紀行文の最高傑作として高い評価を得たのです。

与謝蕪村 [筆]『奥之細道』上巻,村山旬吾,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2590992 (参照 2024-10-25)

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