お灸事典
お灸の記録


『二十四好今様美人(にじゅうしこういまようびじん)』とは
『二十四好今様美人』は、江戸時代末期の文久3年(1863)に、浮世絵師・三代歌川豊国(歌川国貞)が描いた美人画のシリーズです。
題名の「二十四好」は、中国の親孝行にまつわる二十四の物語「二十四孝(にじゅうしこう)」をもじったもの。「孝」を「好」に置きかえ、当時の女性たちのさまざまな「好み」や楽しみを題材にしています。
作品には『甘い物好』『旅好』『着物好』『祭り好』『料理好』などがあり、芸能や娯楽、装いなど、江戸の女性たちのさまざまな楽しみが描かれています。それぞれの「好」を切り口に女性たちの姿を描くという、遊び心のある趣向もこのシリーズの魅力です。

『二五五四好今様美人』所蔵:東京都立中央図書館
また、人物の表情やしぐさ、身の回りの小物など、一つひとつに目を向けてみるのも楽しみ方のひとつ。画面の細部には、その時代ならではの風俗や習慣を伝えるさまざまな要素が描き込まれています。
その一図『義太夫好』には、女性がお灸をしている姿が描かれています。
『義太夫好』に描かれたお灸
『義太夫好(ぎだゆうずき)』は、義太夫節を好む女性を描いた作品です。義太夫節とは、三味線の伴奏に合わせて物語を語る浄瑠璃の一つで、江戸時代には人形浄瑠璃などを通して広く親しまれました。
この作品で注目したいのが、女性の腕です。よく見ると、腕にはお灸が据えられています。華やかな美人画の中に、お灸の様子がごく自然に描かれているところも見どころのひとつ。当時の女性の日常のひとこまに、お灸が登場していることがわかる興味深い作品です。

『二五五四好今様美人』『義太夫好』(切り抜き)
所蔵:東京都立中央図書館
江戸の人気絵師・三代歌川豊国
三代歌川豊国(さんだいうたがわとよくに)は、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した浮世絵師です。天明6年(1786)に江戸で生まれ、初代歌川豊国に弟子入りし、「歌川国貞」の名で活躍しました。のちに豊国を名乗り、現在では三代歌川豊国として知られています。
特に人気を集めたのが、歌舞伎役者を描いた「役者絵」や、当時の女性たちを描いた「美人画」です。人物の表情や華やかな装いを巧みに表現し、江戸の流行や風俗を数多く描き残しました。
生涯にわたって膨大な数の作品を手がけた、幕末を代表する浮世絵師のひとりです。
まとめ
『義太夫好』に描かれたお灸は、幕末の人々の暮らしとお灸との関わりを今に伝える、興味深い一場面です。浮世絵を通して、当時のお灸のある日常をかいま見ることができます。
『二五五四好今様美人』所蔵:東京都立中央図書館


『当勢三十二相(とうせいさんじゅうにそう)』とは
『当勢三十二相』は、浮世絵師・豊原国周(とよはらくにちか)が描いた32枚からなる美人画のシリーズです。女性たちの表情やしぐさ、性格を「○○相」と題して描き分け、明治時代の暮らしや風俗を伝えています。
国周は迫力ある役者絵で知られていますが、本シリーズでは細やかな筆づかいと美しい色彩で、町娘や遊女、芸者など、さまざまな女性たちを描いています。女性たちの喜びや悲しみなど豊かな感情や、日々の暮らしのひとこまを、趣のある題名とともに描いているのが特徴です。
『手があり相』(知恵や機転が利きそう)、『餝(かざ)つて見た相』(着飾ってみた様子)、『帰しとも無さ相』(帰らせる気がなさそう)などがあり、恋愛や身だしなみ、日常生活のさまざまな場面を描いています。着物や髪形、当時の暮らしの様子も細やかに表現されており、明治時代の人々の暮らしや文化を知る貴重な風俗資料として、現在も高く評価されています。

その中には、お灸を受ける女性を描いた『思ひ切がよさ相』も含まれており、お灸が人々の暮らしの身近な養生法として親しまれていたことを伝えています。

『思ひ切がよさ相』
『思ひ切がよさ相』
『当勢三十二相』の一枚『思ひ切がよさ相』は、お灸を受ける女性を描いた作品です。「相」とは、人の表情やしぐさ、性格や人柄を表すことばです。
『思ひ切がよさ相』とは、現代の言葉でいえば「思い切りがよさそう」という意味で、決断力や行動力があり、未練を残さない人柄を表しています。作品には、お灸の熱さをじっと耐える女性が描かれており、その姿からは、熱さにもひるまず耐え抜く我慢強さや気丈な人柄がうかがえます。
当時、お灸は病気や不調の手当てだけでなく、健康を保つための養生法としても家庭で広く親しまれていました。この作品からも、お灸が人々の暮らしに深く根付き、身近な健康習慣として受け継がれていたことがうかがえます。また、女性の装いやお灸を受ける様子には、明治時代の日常生活がいきいきと描かれています。


豊原国周(Wikimedia Commons)
浮世絵師・豊原国周(とよはらくにちか)とは
『当勢三十二想』の作者、豊原国周(1835~1900)は、幕末から明治時代にかけて活躍した浮世絵師です。
初代歌川国貞(三代豊国)に学び、役者絵や美人画を数多く制作しました。とくに歌舞伎役者を描いた作品で高い人気を集め、役者絵の名手として「明治の写楽」の異名でも知られています。
代表作には、『当勢三十二想』をはじめ、『東錦昼夜競(あずまにしきちゅうやくらべ)』や『開化三十六会席(かいかさんじゅうろくかいせき)』などがあり、明治の風俗や人々の暮らしを生き生きと描きました。

人物の豊かな表情や情感を表現する優れた描写力は高く評価され、現在も国内外の美術館や博物館に多くの作品が収蔵されています。明治を代表する浮世絵師の一人として、今なお高い評価を受けています。
まとめ
浮世絵に描かれたお灸をする姿からは、お灸が養生として日常親しまれていたことがありありとうかがえます。『思ひ切がよさ相』は、明治の暮らしとともに、お灸の歴史や文化を今に伝える貴重な一枚となっているのです。
国周『当勢三十二想 思ひ切がよさ相』,万屋孫兵衛,明治1. 国立国会図書館デジタルコレクション
国周『当勢三十二想 手があり相』,万屋孫兵衛,明治1. 国立国会図書館デジタルコレクション
国周『当勢三十二想 餝つて見た相』,万屋孫兵衛,明治1. 国立国会図書館デジタルコレクション
国周『当勢三十二想 帰しとも無さ相』,万屋孫兵衛,明治1. 国立国会図書館デジタルコレクション
豊原国周『勧進帳』,伊場屋,明治8. 国立国会図書館デジタルコレクション
豊原国周『加藤清正 九代目市川団十郎・猩 九代目市川団十郎』. 国立国会図書館デジタルコレクション
豊原国周『不破伴左衛門・しばらく』,山村金三郎. 国立国会図書館デジタルコレクション


江戸時代から伝わる日本の伝統行事「ほうろく灸」
夏の土用の頃になると、頭に素焼きの皿をのせてお灸を据える「ほうろく灸(焙烙灸)」が行われます。
ほうろく灸は、江戸時代から伝わる、無病息災や暑気払い、頭痛封じ、中風封じなどを願う日本の伝統行事です。現在でも全国各地の寺院で受け継がれ、暑い夏を健やかに過ごせるよう祈願する夏の風物詩として、多くの人々に親しまれています。
ほうろく皿とは
ほうろく灸で使用する「ほうろく皿」とは、平らな素焼きの皿「ほうろく皿」のことです。もともとは、お盆の時期にご先祖様を迎える迎え火や送り火に用いられてきました。
ほうろくという名前は、豆やごま、茶葉などを直火で煎るための浅い土鍋として使われてきたことに由来するといわれています。

ほうろく灸では、この素焼きのほうろく皿を頭にのせ、その上にもぐさを置いて行います。直火で使用でき、熱をおだやかに伝える素焼きの特性を生かし、頭にもぐさをすえるための道具として用いられています。

武田信玄
なぜ頭に焙烙をのせるの?
ほうろく灸では、直接頭にもぐさをすえるのではなく、素焼きの皿「ほうろく皿」を頭にのせ、その上にもぐさを置いて火をつけます。頭のてっぺんの真ん中にある「百会(ひゃくえ)」にほうろく皿をのせてお灸を行うのが特徴です。
ほうろく灸の由来には諸説ありありますが、戦国武将・武田信玄(たけだ しんげん)が兜の上からお灸をすえたことが、ほうろく灸の由来の一つとして伝えられています。今では、古くから語り継がれている言い伝えの一つになっています。
今も受け継がれる伝統行事
現在でも、京都の三寶寺(さんぼうじ)や東京の長國寺(ちょうこくじ)、愛知の普門寺(ふもんじ)をはじめ、全国各地の寺院でほうろく灸が行われています。土用の丑の日に合わせて開催されることが多く、無病息災や暑気払いを願う夏の伝統行事として親しまれていました。

また、寺院によって作法はさまざまで、焙烙に願い事や祈願文、まじないの言葉を書いてからお灸を据えるところもあり、それぞれの地域や寺院ならではの風習が受け継がれています。今も人々の健康を願う行事として大切に守られてるのです。
ほうろく灸は、暑い夏を健やかに過ごしたいという願いが込められた日本の伝統行事です。今も各地で受け継がれるこの風習は、お灸が日本の暮らしに深く根付いてきたことを伝える大切な文化のひとつだと言えるでしょう。


『日本鹿子(にほんかのこ)』とは
『日本鹿子(にほんかのこ)』は、元禄4年(1691年)に刊行された、江戸時代の名産案内書です。古代日本の地域区分である五畿七道(ごきしちどう)に沿って、各地の神社仏閣や名所、名物などが詳しく紹介されており、当時の人々の暮らしや地域文化を知ることができる貴重な資料として知られています。

『日本鹿子』(お茶の水女子大学図書館所蔵)
著者は、江戸時代前期に活躍した浮世草子作家(町人の暮らしや風俗を描く小説家)・礒貝舟也(いそがい しゅうや)。挿絵は、浮世絵師としてだけでなく、世界図や江戸図なども手がけた石川流宣(いしかわ とものぶ)が担当しました。親しみやすい絵と読みやすい文章によって、各地の風景や名産の魅力がいきいきと紹介されています。

『日本海山潮陸図』(東京海洋大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100317533
元禄4年の初版刊行後も広く読まれ、正徳6年(1716年)には内容を増補した『改正増補日本鹿子』も出版されました。近江国(現在の滋賀県)の名産として「伊吹艾(いぶきもぐさ)」も掲載されており、当時から全国に知られる特産品であったことがうかがえます。
近江国の代表的な名産品「伊吹艾」
『日本鹿子(にほんかのこ)』には、近江国の名産として「伊吹艾」が紹介されています。伊吹山周辺は古くから薬草の山として知られ、良質なよもぎが育つ土地でした。そこで作られるもぐさは、香りや品質の良さで高く評価され、人々に親しまれていました。

『日本鹿子』(お茶の水女子大学図書館所蔵)

伊吹艾
江戸時代、お灸は日々の養生として広く用いられており、良質なもぐさは各地で求められていました。『日本鹿子』に掲載されていることからも、「伊吹艾」が近江国を代表する特産品として全国に知られていたことがわかります。江戸時代の人々にとって「伊吹艾」は、近江国を象徴する名産のひとつだったのでしょう。
『日本鹿子』に描かれた近江国
近江国は近江国十三群として紹介され、志賀・蒲生・甲賀などの地域に分けて記されています。現在、せんねん灸本社のある長浜市周辺は浅井(あさい)や伊香郡(いかぐん)として紹介されています。
また、彦根城や竹生島、白鬚大明神、三井寺、石山寺、西教寺、長命寺、浮御堂、永源寺など、近江を代表する名所や寺社も掲載されています。


名物には、「伊吹艾」をはじめ、鮒(フナ)や鯉(こい)、モロコ、ウグイ、いさざなど琵琶湖の幸、蚊屋(かや)、細表衣地(ほそおもてきぬじ)、朽木塗物(くつきぬりもの)などが紹介されており、当時の近江の豊かな文化や産業の様子がうかがえます。
江戸時代から「伊吹艾」は、近江国を代表する名産品のひとつでした。人々に広く用いられた「伊吹艾」からは、近江の豊かな自然と、暮らしの中に根づいていたお灸の文化を感じることができます。
『日本鹿子』(お茶の水女子大学図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100238987


二日灸とは
「二日灸(ふつかきゅう)」は、旧暦2月2日(現在の暦では3月頃)と8月2日(現在の暦では9月頃)にお灸をすえるとよいとされ、日本に古くから伝わる養生の風習です。江戸時代には広く知られ、この日にお灸をすえると「普段の倍の効果がある」、「無病息災」で過ごせるといわれていました。
旧暦2月は寒さがゆるみ、春の気配を感じはじめる頃。一方、旧暦8月は夏の疲れが出やすく、秋へと季節が移り変わる時期でもあります。季節の変わり目は体調を崩しやすいため、この日にお灸をすえて身体を整えるという養生の知恵が生まれました。
当時の人々にとってお灸は、日々の健康を守る身近な養生法でした。家族で二日灸をすえることも多く、健康を願う年中行事のひとつとして暮らしの中に根付いていたといわれています。

『養生訓』
『養生訓』にもみられるお灸の養生
江戸時代の儒学者・貝原益軒が著した健康指南書『養生訓(ようじょうくん)』にも、お灸についての記述があります。そこでは、“胃腸が弱く食べ物が滞りやすい人は、毎年2月と8月に灸をするとよい”と記されています。
季節の変わり目に身体を整えるという考え方は、昔から大切にされてきました。二日灸の習わしも、こうした養生の知恵のひとつとして広まったと考えられます。
俳句の季語「二日灸」
「二日灸」は俳句の季語としても知られ、昔から多くの俳人に詠まれてきました。
明治時代を代表する俳人・歌人 正岡子規(まさおかしき)
花に行く足に二日の灸かな
婆々様の顔をしぞ思ふ二日灸
二日灸ばゞ様の顔ありありと


江戸時代後期の俳人 小林一茶(こばやしいっさ)
褒美の画先へ掴んで二日灸
かくれ家や猫にすえる二日灸
明治から昭和にかけて活躍した俳人 高浜虚子(たかはまきょし)
先人も惜みし命二日灸
二日灸旅する足をいたはりぬ

俳句の中には、お灸のぬくもりとともに、家族の姿や日常の風景が描かれています。こうした句からも、二日灸が人々の暮らしの中に親しまれていた様子がうかがえます。

『諸國圖會年中行事大成』
『諸國圖會年中行事大成』にも記された二日灸
江戸時代の年中行事をまとめた書物『諸國圖會年中行事大成(しょこくずえねんじゅうぎょうじたいせい)』にも、二日灸の習わしが紹介されています。
この本は、京都を中心に日本各地の年中行事や神事、寺院の法会、風俗や習慣などをまとめたものです。その中にも二日灸の記述があり、当時の人々の暮らしの中で、お灸が健康を守る大切な習慣として広く行われていたことが伝えられています。
二日灸は、季節の変わり目にお灸をすえて健康を願う、日本に古くから伝わる養生法です。俳句にも詠まれるなど、人々の暮らしの中で親しまれ、先人の知恵として今に伝えられています。


灸箸(やいとばし)とは
昔、お灸で用いられていた道具のひとつです。
箸のような形をしており、もぐさを挟んで皮膚に据えるために使われました。
当時のお灸は、現在のように台座のあるお灸とは異なり、もぐさを直接皮膚の上に置いて火をつける方法が一般的でした。そのため、火のついた大きなもぐさをそのまま据えると熱を感じやすく、灸箸はもぐさを扱いやすくし、据える位置や火加減を調整するための道具として重宝されました。

灸箸の素材
素材には主に桃の木が用いられました。桃は古くから魔除けや邪気を祓う力があると信じられており、とくに三月三日の桃の節句に選んで採るなど、素材選びそのものに意味が込められていました。
どんど焼きと灸箸
また地域によっては、小正月の行事であるどんど焼きと結びついた風習も見られます。どんど焼きは、正月に用いたしめ縄や門松などを焚き上げる行事で、各地で古くから行われてきました。その際に使われた竹を用いて灸箸を作り、お灸をすえる習わしが伝えられている土地もあります。

『日用灸法』

『灸法口訣指南(きゅうほうくけつしなん)

所蔵:京都大学附属図書館
文献にみる、灸箸づくり
安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した医師・曲直瀬玄朔(まなせ げんさく)の著した『日用灸法(にちようきゅうほう)』によれば、東に伸びた桃の枝を三月三日に採取して作った箸が最良とされています。
また、江戸時代中期の医師・岡本一抱(おかもと いっぽう)による、鍼灸の入門書として重要な書物『灸法口訣指南(きゅうほうくけつしなん)』五巻には、三月三日に東向きの桃の枝を切り落とし、粗皮を削ってしばらく枯らしたものを用いて灸箸をこしらえると記されています。本草学の考えでは、桃の木には邪鬼を除く力があるとされ、灸箸の素材として重んじられてきました。
一方で、竹箸を用いる例もありますが、竹は新旧を問わず火に近づけると油がにじみ出るため、灸には適さないとされています。桃の木についても、新しいものは湿り気が多いため、十分に年月がたち、よく乾いた材ほど良いとされており、素材の性質を見極める知恵がうかがえます。
絵巻物に描かれた灸箸の姿
国宝であり、平安時代末期に制作されたとされる絵巻物『病草紙(やまいのそうし)』の一場面「小舌の男」や、南栄四大家の一人・李唐が描いた『灸艾図(きゅがいず)』などには、灸箸を用いてお灸をすえる様子が描かれています。
これらの絵画資料は、当時のお灸の道具や施術の所作を具体的に伝える、貴重な手がかりとなっています。
灸箸ひとつをとっても、昔の人々はお灸にとって何がよいかを考え、素材や作る時期にも心を配って作っていたそうです。



女重寶記(おんなじゅうほうき)とは
『女重寶記』は、江戸時代に女性の暮らしと教養をまとめた実用書で、全五巻から成ります。
一巻「女中万たしなみの巻」には、女性として日々身につけたい心がけと作法、
二巻「祝言の巻」には、結婚儀礼や婚礼にまつわる心得、
三巻「懐妊の巻」には、妊娠期の心得と暮らし方、
四巻「諸芸の巻」には、生活に役立つ教養や習い事、
五巻「女節用集字尽」には、暮らしにまつわる言葉や用語、のし紙の折り方など、日常に役立つ知恵をまとめた便利帳が収められています。
なかでも、贈り物のときに使うのし紙を二十種類以上も使い分け、さらに折り方まで身につけていたという、江戸時代の女性の小粋な暮らしぶりがあちこちに記されています。そんな中に、お灸も登場しています。
家事作法や季節のしきたり、身だしなみ、心構えなど、当時の暮らしに役立つ知恵が幅広く収められ、いわば女性の生活百科のような俊樹が詰まった本でした。近年ではNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」にも登場し、江戸文化を象徴する書物として再び注目されています。


身の養生ならびに四花の灸
『女重寶記』一巻には、江戸時代の女性が抱えていた心身の負担と、当時大切にされていた養生の考え方が記されています。娘は成長とともに芸事や作法を求められ、嫁いだ後も家の務めに心を配るため、十六、七歳頃に「労咳(ろうがい)」と呼ばれる不調をきたす者が多かったとされています。
そのような様子が見られたときは、まず暮らしを整え、早めに医師へ相談することが重要とされました。また、民間で行われていた方法の一つとして「四花患門」というツボへのお灸が紹介されており、江戸時代の女性たちがお灸を身近な養生として親しんでいたことがうかがえます。
難産に効く妙薬と灸法
『女重寶記』三巻には、江戸時代に伝えられていた難産への備えとして、当時の人々が用いた妙薬や灸法が紹介されています。
いざという時の助けとして、民間で行われていた方法の一例が挙げられています。右足の小指の先に麦粒ほどの大きさで三壮のお灸をすえるとよいとされ、また腰の「十六の推」と呼ばれた部位にも三か所のお灸を据える方法が紹介されています。これらは当時のお産への向き合い方や、お灸が日常の中でどのように親しまれていたかを知る手がかりとなる記述です。

妊娠中の過ごし方と、食事で注意すべきことについて
『女重寶記』三巻には、妊娠中の暮らし方や当時の注意点が記されています。その中で、出産予定の月にお灸をすえることは控えるべきだとされ、前の月までは差し支えないとする記述が見られます。これは、江戸時代の人々が妊娠期のからだを気づかい、お灸を行う時期にも配慮していたことを伝えるものです。
女性たちの暮らしを支えた『女重寶記』には、日々を過ごすための心がけとともに、お灸が身近にあったことが随所に記されています。江戸の昔から、お灸は人々のからだをいたわり続けてきたのです。
[苗村常伯 撰]『女重宝記 5巻』,又兵衛,[江戸時代]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2599442 (参照 2025-11-28)



出典:ColBase
『吾妻鏡(あづまかがみ)』とは
鎌倉幕府の動きを詳細に伝える『吾妻鏡』は、1180年(治承4年)から1266年(文永3年)までの87年間をおさめた日本の歴史書です。
初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代にわたる将軍の時代を対象とし、1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の皇子・以仁王が「平家を滅ぼすべし」と旗を掲げて挙兵した出来事にはじまり、1266年(文永3年) 7月20日、第6代将軍・宗尊親王が京都へ戻って将軍職を辞した記録をもって結ばれています。
『吾妻鏡』に登場する「お灸」
『吾妻鏡』には、「お灸」が実際にすえられていた様子がいくつも記録されています。
いくさでの「お灸」
承久三年(1221年)、宇治川の戦いで春日貞幸が矢に当たり瀕死の状態で岸にたどり着いたとき、北条泰時はすぐに「お灸」をすえ、正気を取り戻させたと記されています。いくさという過酷な状況でも、「お灸」が応急処置として人を救う力を持つと信じられていたことがわかります。

“承久三年(1221)六月小十四日丁夘。霽(はれ)。雷鳴數聲(らいめいすうこえ)。武州(ぶしゅう)、河を越へ相戰は不者、官軍を敗り難き由相計り(よしあいはか)、芝田橘六兼義(しばたのきつろくかねよし)を召し、河の淺瀬を(あさせ)尋ね究む(きは)可き(べ)き之旨(のむね)を示す……
武州之(ぶしゅうこれ)を見て、手自ら數箇所(すうかしょ)の灸を加うる之間に、正念住(しょうねんすま)う”

将軍のお灸習慣
将軍・藤原頼経自身も、日常的に「お灸」をしていたことが記録に残されています。折にふれて5〜6カ所に「お灸」をすえ、養生に努めていたようです。
“仁治二年(1241)三月大十六日甲辰。此(かく)の間、將軍家御灸を五六ケ所へ加(くは)へ令(せし)め御(たま)うと云々(うんぬん)。”
御台所の病と「お灸」
寛元四年(1246年)の春、頼経の正室(御台所)が病にかかりました。その経過は日を追って記録されており、占いによる診断とあわせて「お灸」が繰り返しすえられていたことがわかります。
十五日には「お灸をすえた」、十七日には「重ねて御灸有り」、さらに十八日には「この日は新しい発作はなかった」と記され、病状が落ち着きを見せた様子もうかがえます。

“寛元四年(1246)二月小十五日乙亥。天晴。御臺所(みだいどころ)御不例(ごふれい)の事、頗(すこぶ)る其(そ)の煩(わずら)ひ有り。御占(おんうら)を行被(おこなはれ)る之處(ところ)、 太(はなは)だ不快也(ふかいなり)。縡邪氣之疑(ことじゃきのうたが)い有ると雖も、御灸等を加(くは)へ被る(らる)と云々(うんぬん)。
“寛元四年(1246)二月小十七日丁丑。天晴。御臺所(みだいどころ)重ねて御灸有り。”
“寛元四年(1246)二月小十八日戊寅。御臺所(みだいどころ)御不例(ごふれい)の事、今日發令(はっせし)め給(たま)は不(ざる)と云々(うんぬん)。”
「お灸」は、将軍の日常の養生からいくさにいたるまで、さらには正室の病気の手当てにまでも用いられ、身分の高い人々にとっても信頼できる医術でした。鎌倉時代の暮らしと健康を支える大切な手段であり、その知恵は現代にも受け継がれ、セルフケアとして私たちの生活を支えています。



北斎漫画『槍どうし、木刀どうし』
メトロポリタン美術館蔵
『北斎漫画(ほくさいまんが)』
『北斎漫画』は、浮世絵師・葛飾北斎(かつしかほくさい)が弟子たちのために描いた、絵手本であり、文化11年(1814年)に第1編が刊行されました。もともとは一冊のみの予定でしたが、初版が大きな反響を呼び、続編が次々と発刊。最終的に全15編からなる一大シリーズとなりました。
人々の姿、風景、ゾウやトラなどの動物、神社建築のつくり、さらには想像上の世界まで、4,000点以上の絵がおさめられており、絵のテーマもレイアウトもページごとに変化にとんでいます。紙面の枠いっぱいに描きこまれた絵は、めくるたびに新たな発見があり、見飽きることはありません。
絵の教科書としてだけでなく、見て楽しむ娯楽としても広く親しまれ、江戸時代から現代に至るまで、世界中で読みつがれている北斎の代表的な作品のひとつです。

北斎漫画『風のトラ』 メトロポリタン美術館蔵

木村黙老 著『戯作者考補遺』,国本出版社,1935. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1874790 (参照 2025-07-24)
葛飾北斎(かつしかほくさい)とは
江戸時代を代表する浮世絵師・葛飾北斎は、『冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』に代表される風景画で知られ、世界的にも高く評価されています。絵を描く腕前は群を抜き、あらゆるジャンルを自在に描きこなすその才能は、生涯にわたり衰えることがありませんでした。
90年の生涯で30回以上も改名し、住まいも90回以上引っ越したといわれるなど、常に新たな表現を追い求めてきた人物です。
近年では、代表作『冨嶽三十六景』が2020年より日本のパスポートの査証(ビザ)ページに採用されるなど、北斎の芸術は現代の暮らしの中でも息づいています。

『冨嶽三十六景』メトロポリタン美術館蔵
蠻国の灸治
『北斎漫画』第十二編には、「蠻国の灸治」という、不思議でユーモラスな一場面が描かれています。
舞台は、どこか島の海辺の風景。そこには手長男と足長男の姿があり、手長男は足長男の前に座って、紙の上に「もぐさ」を並べ、足長男の長い足のひざにお灸をすえようとしているかのようです。

北斎漫画『蠻国の灸治』 メトロポリタン美術館蔵
現実と想像が入り混じった、「蠻国(ばんこく)の灸治」。北斎の想像力と遊び心があふれる一枚です。
そして何より、北斎が題材に選ぶほど、「お灸」は江戸時代の暮らしに深く根づいていたことがうかがえます。


『寿限無(じゅげむ)』『時そば』『まんじゅうこわい』など、落語には人々の暮らしを題材にした演目が数多くあります。そんななか、「お灸」が主役として登場するのが、『強情灸(ごうじょうきゅう)』という一席です。

あらすじ
“十人十色、人それぞれ顔かたちが違うように、気性もまたさまざま。気の短い人、のんびり屋、そして強情っぱり。まったく世の中は面白いもんでして”
と、世間の人情模様を紹介するくだりからはじまります。
物語の主人公は、江戸っ子の大工。意地っ張りで短気、そして強情者です。
ある日、友人が
“お灸ってのは熱いもんだ”
と話すと、
“そんなもん、熱くもなんともねぇ”
と笑い、左腕にもぐさを山盛りにして自ら火をつけてしまいます。
“ほら見ろ、ぜんぜん熱くねぇ”
と言いはり、すると、友人がひと言。
“そりゃそうだ、まだ火がまわってねぇんだよ”
すると、うちわを取り出して、せっせと自分であおぎはじめる始末。
そのうち
“石川五右衛門は釜茹でだ、お七は火あぶりだぞ”
と、強情に拍車がかかりますが、お灸の熱さはどんどん増すばかり。ついには耐え切れず、お灸をはらいのけてしまいます。
そして最後のひと言
“うぅっ、冷てぇ!…おれは熱くねぇが、五右衛門はさぞ熱かったろう…”
というところで幕が下がります。
江戸っ子に意地っ張りな性格や、見栄を張るやりとりが笑いを誘う、「お灸」を題材にした落語の名作です。
落語の「お灸」が、今の暮らしにも
この落語は、身体の具合が悪くて、近ごろ評判の「お灸」をすえに行っていたという、江戸っ子二人の話からはじまります。
江戸時代の人たちにとって、「お灸」はとても身近なもので、暮らしの中でよく使われていました。
「お灸あるある」の話だからこそ伝わるおもしろさ、それが、『強情灸』の人気のひとつでもあったのです。
健康のために、欠かすことなく、すえられてきた先人の知恵「お灸」。

今では、熱さをがまんすることなく、心地よく温かいお灸として受け継がれています。





