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2018.03.30

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江州 国友村

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天文12年(1543)種子島に漂着したポルトガル人によってもたらされた火縄銃を見た 時の将軍足利義晴は、当時、すぐれた刀鍛冶として知られていた江州 国友村の国友善兵衛に銃の製作を命じました。
始めて目にした銃。ネジの製作から始まって刀鍛冶としての技術とは異なる世界に挑戦した善兵衛はわずか数年で鉄砲の製作に成功したのです。
時あたかも戦国時代、完成した火縄銃は弓矢と刀の戦さに革命をもたらしました。
1560年、桶狭間の戦いで織田信長は日本で最初の鉄砲を使用した戦いで勝利、さらに長條の戦いでも大勝利をおさめたのです。

国友の火縄銃は信長の手厚い庇護のもと、発展をつづけ最盛時には70軒500人をこえる鍛冶職がつくる銃は全て国友ブランドを標示し、国友は一大鉄砲鍛冶集団となりました。
そして信長に始まって秀吉、家康と戦国武将から常に信頼を得てきた国友村は、江戸時代には天領とされ幕府直轄の鉄砲製造所となったのです。

江戸時代に入り、大平の時代を迎え武器としての鉄砲の需要はぐんと減りました。
しかし始めて目にしたポルトガル銃からわずか数年で武器としての国友銃を生み出した高い技術力と探究心は脈々と生きていました。

江戸後期に国友家に生まれた国友一貫斎は、代々つとめる御用鍛冶職として江戸幕府に詰め、最新の西洋文明を目にし、新しい科学の時代を察知、鉄砲の製法を公開するとともに自ら「気泡」と呼ばれる空気銃や「反射望遠鏡」など数々の発明を重ね、東洋のエジソンと称させられたのです。
一貫斎は自ら製作した反射望遠鏡を使い、日本で始めての天体観測に取組み数多くの天体図を残しました。
今、国友村は日本の天文学の発祥の地とされているのです。

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今は長浜市国友町となった美しい街並みはあくまで静か。江戸時代の国友村の隆盛の気配が街のあちこちで感じられます。

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